「ひゃくえむ。」と踊る
2025年の最後に「ひゃくえむ。」という映画を見ました。
100メートル走の競技を哲学的な視点で描いた映画です。
登場人物たちは、
それぞれ違う理由で走っています。
・勝ちたいから
・誰かに認められたいから
・負けたくないから
その理由は、ときにすれ違い、
ときにぶつかり合い、
ときに残酷なほどはっきりと差を生みます。
それでも彼らは走ります。
やめる理由はいくらでもあるのに、
走らずにはいられない。
ダンスに置き換えると
上手くなりたい。
舞台に立ちたい。
評価されたい。
そういった感情もあると同時に
・音が鳴ると、身体が動いてしまう
・踊ったあとの呼吸が、少しだけ楽になる
・うまくいかなくても、また来てしまう
そんな「説明できない理由」で踊り続ける方もいるかと思います。
『ひゃくえむ。』が描いていたのは、
才能の物語というより、「続けてしまう人間の物語」だったように思います。
100メートル走は、記録という数字で、
残酷なほど明確に優劣がつきます。
でも映画は、その数字の外側にあるもの
迷い、葛藤、誇り、焦り、諦めきれなさを
丁寧に描いていました。
映画の中で、主人公のトガシは走る理由が変化していきます。
最初:走れるから走る
中盤:失いたくないから走る
最後:理由がなくても、走ってしまう自分を引き受ける
物語の終盤、
トガシはある意味で“答え”を見つけます。
それは、
勝つためでも、
才能の証明のためでもなく
走らずにはいられない自分がいる
という事実を否定せずに受け入れること。
ここで走る理由は、
外から与えられた意味 →自分の内側にある衝動
へと変わります。
走る理由が変わっていく主人公を見て、
それは「後退」ではなく、「成熟」なのだと感じました。
踊る理由も、
年齢や環境とともに変わっていい。
発表会のためでもいいし、
健康のためでもいいし、
何も考えず、ただ身体を動かしたい日があってもいい。
理由が変わっても、
身体と向き合う時間が続いていくこと。
その尊さを、
『ひゃくえむ。』は教えてくれる映画でした。
もし、
「最近、踊る理由がわからなくなった」
「結果ばかり気にしてしまう」
そんな瞬間がある人がいたら。
この映画は、
少しだけ視線を外してくれると思います。
速くなくてもいい。
目立たなくてもいい。
それでも、続けてしまう人の物語として。


